僕が15回以上も転職を繰り返した、本当の理由
はじめまして、きのやんと申します。
トップページや自己紹介ページでも少し触れましたが、このページでは、僕が40代で「大人の発達障害」と診断されるまで、どんな人生を歩んできたのか、その全てを包み隠さずお話ししようと思います。
きれいごとや、かっこいい話は一切ありません。あるのは、失敗と挫折、そして「なんで自分だけうまくいかないんだ」という、暗闇の中での長い長いため息だけです。
もしあなたが今、かつての僕と同じように、自分のせいではない「生きづらさ」に苦しんでいるのなら、この僕の失敗だらけの物語が、あなたの心を少しでも軽くし、前向きになれるきっかけになれたらと願っています。
序章:暗闇の始まり(幼少期〜学生時代)

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生まれてすぐ、死にかけた僕
僕の人生のつまずきは、どうやら生まれた直後から始まっていたようです。生後まもなく、僕は髄膜炎(ずいまくえん)という重い病気を患いました。
最終的に分かった事ですが原因は院内感染だったようです。当時の医療では生存率が低く、医師からは両親に「助かっても、体に麻痺が残るか、知的障害が出る可能性が高い」と、厳しい宣告がなされたと聞いています。奇跡的に幸いにも後遺症はなく回復しましたが、この経験が僕の脳機能に何らかの影響を与えた可能性は、今となっては否定できません。
テニスだけが、僕の居場所だった
物心ついた頃から、僕はとにかく落ち着きのない子供でした。じっとしているのが苦手で、いつもどこか怪我をしている。先生の話は頭に入らず、忘れ物も日常茶飯事。そんな僕が唯一、輝ける場所がありました。それがテニスコートです。小学校高学年から始めたテニスに、僕はのめり込みました。他のことは何もできなくても、テニスだけは誰にも負けたくなかった。その一心で練習に打ち込み、高校はスポーツ推薦で入学。埼玉県の代表となり、ついにはインターハイに出場するまでになりました。しかし、学生競技やプロの世界は甘くなく、体格的な限界を感じた僕は、大学で競技テニスを続ける道を諦めざるを得ませんでした。僕の人生を支えていた唯一の柱が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた瞬間でした。
第1章:社会という名の巨大な壁(20代の転職)

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テニスを失った僕は、なんとなく選んだコンピューターグラフィックの専門学校に進み、社会へと放り出されました。時は就職氷河期(ロスジェネ世代)の真っ只中。僕の社会人生活は、まさに嵐の中の船出でした。20代から僕の怒涛の転職ラッシュは始まります。
1社目:情報処理会社
最初に就職したのは、「電子帳票(今のエクセルのようなシステム)」を作成する中小企業でした。しかし、ここでいきなり社会の洗礼を浴びます。中小企業で新人を教育する余裕がなく、僕は入社後、業務をほとんど教えられないまま、ほぼ放置状態に。営業は、こちらの状況などお構いなしに、業務内容を理解せず、バンバン仕事をおろしてきます。たまらず先輩に教えを乞うも、返ってくるのは「あれ、やっといて」「うまいことやっといて」という曖昧な指示ばかりで、全く理解できません。人も少なく余裕もないため、詳しく聞いても誰も教えてくれないという悪循環。結果、報告・連絡・相談のタイミングも分からず、ミスにも繋がり、僕はわずか数ヶ月で最初の「脱落」を経験しました。
2社目〜:テニスコーチ
「やっぱり自分にはテニスしかない」。そう思い、テニスコーチとして働き始めます。好きなことを仕事にするのだから、今度こそ大丈夫だろうと思っていました。生徒さんとのコミュニケーションは、不思議とうまくいきました。 テニスを教えること自体は楽しく、子供たちからは「きのやんコーチ!」と慕われていました。しかし、問題はコートの外にありました。他のコーチとの雑談、そして何より、支配人との人間関係につまずいたのです。僕の「普通」とは違う言動が、支配人の癇に障ったのでしょう。些細なことでネチネチと責められ、他のコーチたちの前で晒し者にされる日々。そしてある日、理不尽な叱責に、僕の怒りは頂点に達します。「あんたのやり方はおかしい!」 僕は支配人に逆ギレし、言ってはならない暴言を吐いてしまいました。もちろん、それで全てが終わり。僕は自ら居場所を破壊し、テニスを仕事にする事を諦めたのです。
3社目:携帯電話販売員
次に就いたのが携帯電話の販売員です。販売ノルマがありプレッシャーは相当なものでしたが、不思議と他の販売員との仲は良く、チームで目標を達成していくことにやりがいを感じていました。しかし、そんな楽しい時間も長くは続きませんでした。会社の業績悪化に伴う販売員の削減の煽りを受け、僕はあっけなく退社に至りました。人間関係がうまくいっていただけに、この解雇は精神的にかなりこたえました。
4社目:デザイナー
専門学校で学んだ知識を活かそうと、デザイン会社に勤めました。そこの社長が、良くも悪くも、まさに現代の織田信長のような人物でした。彼のアイデアは常に斬新で、業界の誰もが思いつかないような企画を次々と成功させていました。しかし、その光の裏には、深い闇がありました。信長が家臣を扱ったように、彼は社員を駒としか見ていませんでした。「なぜできないんだ!」「お前は馬鹿か!」という罵声は日常茶飯事。僕のプライドと自尊心は、日に日に削られていきました。おまけに毎日帰宅は終電。ある日、僕は朝礼中に社内で倒れました。しかし社長はお構いなし。「ちょっと休んでろ!」の一言。その瞬間、僕の中で何かが切れました。気づけば、僕は震える手で書いた辞表を握りしめ、「もうやってられるか!」と叫びながら、それを社長の顔に投げつけていました。
5社目:コールセンター(※20代~30代にかけて複数社)
意外にも、この仕事は僕のキャリアの中で最長の10年以上続きました。(さらに30代~40代も合わせると全部で4~5つのコールセンターを渡り歩きました)そして、自分でも驚いたのが、ADHDの多動的な特性があった為か、なぜかクレーム対応に滅法強かったことです。しかし、あるコールセンターでは地獄を見ることになります。きっかけは、あるSVへのささやかな反論でした。その日を境に、彼の僕に対する態度は一変し、執拗なパワハラ地獄が始まったのです。お客様との対応中、僕が保留ボタンを押した瞬間を狙って、彼は僕の隣にやってきては、他のオペレーター全員に聞こえるように、ネチネチと僕の対応の粗探しをし、吊し上げるのです。社内の相談窓口にも駆け込みましたが、状況は全く改善しませんでした。精神的に追い詰められた結果、通勤の満員電車内で2回も倒れてしまったのです。心を無にして働き続けましたが、ある日プツンと糸が切れるように、僕は10年以上しがみついてきた業界を去りました。
第2章:繰り返す絶望(30代以降の転職地獄)

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30代になると、僕の転職癖はさらに加速します。もはや、自分が何をしたいのかすら分からなくなっていました。
6社目:着物屋のEC担当
「これからはネットの時代だ!」と一念発起し、父と兄が経営する着物屋のECサイト担当になりました。写真撮影や画像処理、サイト作りなど、仕事自体はやりがいがありました。もちろん、簡単な道ではありませんでした。同じような特性を持つ父や兄とは、お互いの「普通」が違うため、仕事の進め方を巡ってよくぶつかりました。それでも、僕が作ったECサイトを見て来店してくれるお客様が少しずつ増え、「ネットで見て来ました」という声を聞くたびに、大きな喜びを感じていました。 しかし、そんな日々も長くは続きません。世の中の不景気の波は、小さな着物屋にも容赦なく押し寄せ、お店の売上は徐々に落ち込んでいきました。これ以上、家族に迷惑はかけられない。僕は自ら身を引くことを決意し、退社の意思を固めたのです。
7社目:葬儀屋
「人の役に立つ仕事がしたい」。そんな殊勝な気持ちで飛び込んだのが葬儀屋の世界でした。しかし、僕を待っていたのは、あまりにも理不尽な現実でした。僕の歓迎会の初日、店長からいきなり「おれについてこい、かわいがってやる」という、時代錯誤なパワハラ洗礼を受けました。 葬儀業界は、僕が想像していた以上に特殊な世界でした。厳しい上下関係、絶対的な年功序列、そして、新しいものや違う考え方を徹底的に排除する保守的な考え方。 僕の特性である「なぜ?」「こうした方が効率的では?」という疑問や提案は、ことごとく「生意気だ」と一蹴されました。まさに「出る杭は打たれる」。僕の存在は日に日に社内で煙たがられ、孤立し、陰湿な社内いじめのターゲットになっていきました。精神的に追い詰められた僕は、ついに心療内科に駆け込むことになります。結局、ここも逃げるように辞めました。
30代~40代にかけても怒涛の転職ラッシュは続きます。
…と、ここまで代表的な7つの職歴をお話ししましたが、これだけでも僕の混乱したキャリアを物語っています。
気づけば、僕の履歴書や職務経歴書は、もはや人にはまともに見せられる状態ではなくなっていました。
もっと詳しい話はこちら
ここに挙げたのは、僕の15回以上に及ぶ転職の一部です。一つ一つの職場で、僕が何に悩み、どうして辞めることになったのか。
そのほぼ全ての失敗談と、そこから学んだことの全記録は、こちらのページで公開しています。
最終章:光の差す方へ(ひきこもり〜診断)

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15回以上の転職を繰り返し、心も体も限界に達した僕は、ついに働くことを諦め、ひきこもりになりました。しかし、本当の地獄はここからでした。僕の「普通」じゃない言動は、一番近くで支えようとしてくれる妻の心を、静かに、しかし確実に蝕んでいきました。僕のアスペルガー症候群の特性が原因で、妻がカサンドラ症候群になってしまったのです。
彼女は僕とのコミュニケーションが成り立たないことで悩み、心身ともに疲弊し、日に日に笑顔を失っていきました。「あなたの言っていることが、どうしても理解できない」「どうして、私の気持ちを分かってくれないの?」…そんな彼女の悲痛な叫びに、僕は何も答えることができませんでした。僕たちは、何度も離婚の危機を迎えました。荷物をまとめて出て行こうとする妻を、僕が泣きながら引き止めたことも一度や二度ではありません。
彼女の心が完全に壊れてしまう前に、なんとかしなければ。いや、もう手遅れかもしれない。その一心で、僕たちはボロボロの状態で精神科のドアを叩きました。そして、様々な検査を経て下された診断が、「発達障害(自閉スペクトラム症(ASD)及び、注意欠如多動症(ADHD))」でした。長年僕を苦しめ、僕たちの関係をめちゃくちゃにしてきた「生きづらさ」の正体が、ようやく分かった瞬間でした。
>>【体験談】精神障害者保健福祉手帳の取得方法やメリット・デメリットはこちらで詳しく解説しています
そして、あなたへ
これが、僕の失敗だらけの半生です。でも、この診断と、その後に知った「就労支援」という存在が、僕の人生を大きく変えるきっかけになりました。
もし、あなたが今、かつての僕と同じように、「なぜか仕事が続かない」「人間関係でいつもつまずく」と悩んでいるのなら、それは決してあなたのせいではありません。
もしかして、自分も…?と感じたあなたへ
もし、あなたが今、この僕の物語を読んで、「もしかして、自分も…?」と少しでも感じたのなら。まずは、その「生きづらさの正体」を突き止めることから始めてみませんか?
僕は、診断を受けるのが怖かったです。でも、白黒はっきりさせたことで、初めて前に進むことができました。
次のステップへ進みたいあなたへ
そして、もしあなたがすでに診断を受けている、あるいは自分の進むべき道を具体的に考えたい段階にいるのなら。僕がどうやって自分の特性と向き合い、自分に合った働き方を見つけていったのか。あなたの状況に合わせた「最初の最適な一歩」はどれなのか。その具体的な答えを、以下の記事で詳しくお話ししています。