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コラム:大人の発達障害の私が考える社会のあらゆる間接的差別について

読書イメージ

今回は「差別」について考えてみたいと思う。
差別と言っても「人種」「性」「年齢」など様々だが今回は障害者への間接的差別について考えてみたい思う。

この前読んだ本の中になるほどと思った点があったので参考引用させていただきたいと思う。

次の3つの事例について考えてみよう

①エレベーターのないビルの3階にあるソフトウェア会社が、自力でオフィスにたどり着けないプログラマーを採用したケース

②ある企業が採用試験の為、応募者にIQテストを課し、一定レベルに達しない者を不合格としたケース


③長時間労働があり得ることを前提とした労働条件しか与えないケース


これらの3例いずれにも「障害」という文言は登場していない。したがって障害を理由とする直接的差別にはあたらない。しかも階段を上がれる能力とプログラミングの能力直接関係がなく、IQが一定レベルに達していなくてもできる仕事は社内にあるはずだし、長時間労働を必要としない働き方は作れるはずだ。したがってこれらの条件は結果的に、身体障害、知的障害、精神障害の人たちを職場から排除する間接的差別に該当すると考えられる。

新版 障害者の経済学    中島隆信著     2018年 東洋経済新聞社

入社前試験のSPIテストなどは正に我々精神障害者(知的障害者も含む)を振るい落とす制度と言っても過言ではないであろう。巷でよく「SPIテストは発達障害者を落とすテストだ」と言われる所以である。
SPIテストでは「言語分野」と「非言語分野」の2種類の問題が提出され、「言語分野」では言葉の意味や話の要旨を的確に捉えて理解できる力を測る問題。「非言語分野」では、数的処理や、論理的思考力を測る問題が出題る。これに併せ職務や組織への適応性をはかる「性格診断」が行われる。

すなわちこれは私が発達障害の診断の際に併せてうけたIQ検査であるWAIS検査とさほど変わらないのである。
WAIS検査では言語理解と非言語理解(言語理解・知覚推理・ワーキングメモリー・処理速度)からなるIQ検査で各項目の差が激しいと「発達障害の疑いあり」となる。

入社テストではその他「性格診断」が行われ、「職務が果たせるかどうか?」「組織への適性はあるか?」いわゆる私たち適応外者である精神や知的の障害をもつ者をふるい落とすという機能をもっているのである。
定型発達者のなかでそのテストに通過できた者だけ面接にたどり着け、そこで企業側は初めて応募者と対等な立場で人となりを確認するのである。
まあだからと言って応募者全員を面接するのは合理的に考えて難しいだろう。その場合は実際の業務に即した入社前のテストをさせればいいと思う(SPIではなく応募職種の実際の業務で応募者がやれそうなものなど)。もしくは履歴書と職務経歴書からある程度の業務適性を判断し、見込み者はその後、テスト採用させ一定期間の間だけ業務をさせて入社可否を判断するのもいいだろう。

その他の間接的差別においては身体障害を持っている人であれば社内がバリアフリー化していなければ間接的差別だし、視覚障害があり盲導犬が必要な人に対し「動物同伴入店はお断り」は間接差別であり、知的障害を持つ人は社会の中のあらゆる言葉の意味や文章を理解できなければ間接的差別となるし、日本全体にまん延する「忖度、空気を読む、言葉の裏の意味を推し量る」等の空気自体モロに発達障害を持つ人への間接的差別である。
障害者差別禁止法が制定されてもそれは「直接的差別」に対してであり「間接的差別」においては立証が難しく、現段階社会のいたるところで「間接的差別」が横行しているといって過言ではない。

SDGSが叫ばれるなか未だに入社前SPIテストをさせている会社=優生思想の名残で障害者を間接的差別している会社

ではどうすればよいか?書籍では下記のように書いている。

これらの差別をなくすためには次のような「配慮」が必要とされる。

①エレベーターを設置する
②IQが高くなくともできる仕事をつくる
③仕事を効率化し働き方を改善する


こうした配慮があれば障害のある人も能力を発揮して働くことがで可能となる。

新版 障害者の経済学    中島隆信著     2018年 東洋経済新聞社

つまるところ障害者=身体のどこかに機能不全があったとしても、それを意識せずとも困らず暮らしていける社会を構築していけば障害者という概念がこの地球上からなくなるのである。
簡単に言えば日本では外国の方を「外国人」と認識するが、アメリカのような移民国家(外国人が当たり前の国)では外国人という認識がなくなり「移民」という考え方になるのと似ている。

また入社前のテストにしてみても海外のようにジョブ型雇用が進めば、その人は「何ができないか?(できない人を振るい落とす)」のではなく「何が秀でているのか?(技能者をピックアップする)」が採用基準となる日が来るであろう。

前述した、車いす利用者なら社会全体をバリアフリー化すれば身体障害は苦ではなくなり、知的障害者にも伝わる高度なデバイスが開発されれば知的障害は苦ではなくなり、社会全体から空気を読むような風潮を辞め、他社の意見をちゃんと聞き入れ、自分の意思表示をしっかりしなくてはならない社会になれば発達障害は苦ではなくなるのである。
又は完全になくすのが難しくとも、我われ機能不全を持つ者たちには「それ」が特段問題とならないレベルになるであろう。

すなわち「障害者」とは我々機能不全者が作り上げているのではなく、「それ」を作り出すのは定型発達者によって我々を無意識のうちに排除する「社会」そのものである。 

詰まるところ「それ」はいわゆる社会の不寛容である。

私たちは不寛容の時代から他者理解の時代を超えて他者共存の時代へと転換を求められているのである。

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