以前読んだ本『発達障害を生きる(NHKスペシャル取材班)』の中で、非常に興味深い記事がありました。それは、「定型発達症候群」という概念についてです。
「定型発達症候群」とは、神経生物学的な障害であり、対人関係への没頭、優越性の妄想、周囲との協調に対する固執を特徴とする、と書かれています。定型発達の人々は自分の経験が唯一正しいと考えがちで、一人でいることが困難、他者との些細な違いに不寛容である、とも。
悲劇的なことに、1万人のうち9625人が定型発達症候群である可能性がある。(The Institute for the study of the Neurologically Typical より) (引用:『発達障害を生きる』NHKスペシャル取材班 集英社)
これは皮肉交じりですが、私たち発達障害当事者からすると「納得」の文章です。1988年に自閉スペクトラム症と診断された海外の女性が創作したとされる言葉で、発達障害の人から見た定型発達の人の姿を現しています。
「共感性」の定説を覆す研究
これまで「自閉スペクトラム症の人は共感性に乏しい」という定説がありましたが、京都大学と福井大学などの共同研究により、これが覆されたといいます。
研究では、定型発達者がやりがちな行動と、自閉スペクトラム症の人がやりがちな行動を文章化し、それぞれを定型発達者と自閉スペクトラム症の人に見せて、脳の「共感」に関わる部位の活動を調べました。
その結果、自閉スペクトラム症の人は、多数派(定型発達症候群)の考えには共感できなくても、少数派(自閉スペクトラム症)の人の考えには共感できることが分かりました。一方、定型発達者は同じ定型発達症候群には共感できるものの、少数派には共感する力が乏しいと立証されたのです。
「発達障害」は「脳機能の偏り」であり「少数派の脳」である
そもそも僕は以前から「発達障害」という言葉自体に違和感を抱いていました。なぜなら、発達障害と言われる僕たちの根源は「脳機能の偏り」であり、「脳の故障」ではないからです。
「アスペルガー症候群」が「自閉スペクトラム症」という定義に変わったのも、「自閉症」の特性がスペクトラム=連続体で続くことを意味しています。程度の差こそあれ、定型発達の人も脳機能の偏りがあり、それが性格や考え方を形成し、個性となっているのです。
例えるなら、定型発達者の「自閉度(脳の偏り)」が1〜3、グレーゾーンの人が4〜6、発達障害の人が7〜10だとすると、「弱」発達障害者が「強」発達障害者を「障害者扱い」し、のけ者にしているだけであり、本質は同じなのです。
いわゆる「発達障害」の人は少数派の脳であり、定型発達の多数派の人たちと考え方やモノの見方が異なるだけ。これは身体の障害や知的障害を持つ人にも同じことが言えます。同じ人間として、身体機能や知能機能が多数派か少数派かの違いに過ぎないのです。
「定型発達症候群」が作り上げた社会と、共存への道
僕たちの住む社会は常に「定型発達症候群」の人向けに作られた、多数派の社会だと言えるでしょう。しかし、地球上のあらゆる生物は多数派だけで存在するわけではなく、少数派もたくさんいて、それぞれに個性と役割があります。
この地球を生きるすべての生き物が等しく生を与えられ、それぞれの人生や生きる役割がある。だからこそ、他者を思いやり、それぞれの考えを尊重し、共存し合うことで、お互いがより良い世界を構築していけるのだと僕は思います。そして、これからもっと「他者理解」が求められる時代となるのです。
だからこそ、僕たちは「障害者」であると気落ちする必要は全くありません。私たちはマイノリティの人々であり、自分たちの能力を卑下するのではなく、むしろ誇りをもって主張し、もっと正々堂々と胸を張って生きていっていいのです。
もし生きづらさを感じるのであれば、それは定型発達症候群が作り上げた、いわば仮想社会の「現実」に根本原因があります。これからのSDGsに求められる持続可能な社会を形成していくために、私たちは「マイノリティ共存社会」を叫び続けていけばいいのです。
まとめ:現実と向き合い、自分らしく生きる
これはある種の理想論かもしれませんが、現実には多数派(定型発達症候群)が少数派(発達障害)を理解することは困難であり、そういった社会になるためには、おそらくあと何十年、場合によっては100年以上もの歳月を要するでしょう。
しかし、この考えは常に持ちつつも、発達障害で重要なことは、早くから自分の「適性」と「自身の脳の偏りの癖」を把握し、常日頃から自分を客観的に見るクセを持つことです。そして、周りにも困りごとを伝え、自らが過ごしやすいよう社会生活をしていく必要があるでしょう。