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コラム:大人の発達障害者の私がアカデミー賞受賞式でのスミス氏の平手打ちついて考える

いいね、よくないね イメージ画像

最近巷のニュースで賑わせている、アカデミー賞の受賞式でウィルスミス氏が妻が病気が起因しての容姿をバカにされ、司会者のクリスロック氏を平手打ちした件について、普段はあまり芸能のニュースなど興味がない私だが、少し気になったので自分なりの考えを述べてみたいと思う。

平手打ちイメージ



日米では文化や価値観などの違いで本件に対しての人々のとらえ方が違うという見方もあります。
どちらかというと米国ではスミス氏否定派が多いようで、養護派とそれぞれ意見が二分しているようです。日本ではどちらかというとスミス氏同情の養護派が多いような印象です。

さて本件、見る人々によってそれぞれ評価は違うと思いますが私はもちろん暴力は反対という立場ではありますが、本ブログの「発達障害」という側面からみて感想を述べたいと思います。

①注意欠如・多動症(ADHD)持ちのスミス氏が一番大事にしている人(妻)を侮辱され、それに対して怒りを表現した事は私としてもとても理解できること

②時には身体的ダメージよりももっと大きな精神的ダメージとなる差別発言(しかも自身に対してではなく最愛の人に対しての)をしたクリスロック氏が罪や問題に問われないという歪んだ現実


まず①点目についてですが、注意欠如・多動症(ADHD)持ちを自称しているスミス氏です。同じく注意欠如・多動症(ADHD)の私からみても今回のスミス氏の気持ちは痛いほどよくわかります。(今回は奥様の症状について病気が原因か否かをロック氏が把握していたかどうかは問題ではない)
定型発達者であっても自分に対しての外見的差別発言をうけたらだれでも怒るであろう内容を、あろうことか最愛の人に対して平然とジョークで言われた場合はそれは我慢がならないのも当然の感情でしょう。
定型発達者でも感情的にならずに対処する事はなかなか難しい事だと思います。ましては発達障害者の多くが嘘をつけず、正義感がとてもつよく、そしてとても純粋な心を持った人が多いのも事実です。そういった人に対して「一番大切な人をバカにされること」は耐えがたいことで、感情の抑えが難しい注意欠如・多動症(ADHD)は冷静に対応する事が不可能に近いのではないでしょうか。

仮にもし私本人がスミス氏の立場だったらどうだったか?を想定してみました。私の場合は恐らく暴力まではいかなかったものの、口が悪いのでおそらく相手のロック氏に対して大声で怒鳴るか、スミス氏同様罵倒した可能性が高いです。(結局、目くそ鼻くそを笑うというレベルです)
もちろんその怒りの表現方法は慎重に選ばなければなりません。どんな事があっても暴力で訴える事は許されません。しかし同じ発達障害というフィルターを通して考えるとスミス氏の行為も必然として理解でき同情できるです。

つづいて②点目。まずロック氏のコメディアンという立場でも人の容姿をバカにしたネタは許されざる行為です。今回アカデミーはどうやら暴力を行ったスミス氏のみの対処を行うようですが、そもそも「言葉の暴力」である差別発言をしたロック氏を不問にするというのはナンセンスです。言葉の暴力は身体的暴力よりも長期間心にダメージを与え続けます。しかも当の本人ロック氏からはまだ謝罪もないようで、スミス氏のみ謝罪しなければならないというのはおかしいと思うのです。
私が思うにこのロック氏も「空気が読めない」「相手の気持ちや感情が分からない」自閉スペクトラム症(ASD)または注意欠如・多動症(ADHD)の当本人ではないか?と思うのです。
アメリカ世論の一部ではジョークにいちいち暴力で反応してはコメディアンなどやってられない、という意見もあるようですが、これはジョークではありません。言葉の暴力であり差別発言です。「ジョーク」という考えをはき違えているようです。ロック氏の差別発言は2人と一部の人々同時に侮辱したに等しいです。それはデミムーアとスミス氏の妻、そしてショートヘアの世界中の女性に対してです。そして呆れた事に会場では観客の笑い声があり、問題のロック氏のチケット代もうなぎ上りという話・・・聞いていて悲しくなります。
そもそもアカデミーは自閉スペクトラム症(ASD)的思考をもったロック氏の司会選考が誤りだと思います。アカデミーの品位を落とす行為です。なんでも笑いに変えれば場が良くなると思うのは勘違いです。アカデミー賞授賞式自体厳正で公平で中立的なイメージでなければなりません。

もしかしたら自閉スペクトラム症(ASD)のロック氏が挑発し、注意欠如・多動症(ADHD)のスミス氏が暴力を振るった。というなんとも程度の低いケンカ的な側面も考えられますが、私が思うに「スミス氏を罪に問うなら、アカデミーは差別発言(言葉の暴力)をしたロック氏も不問にしてはならない」これが私の考えです。日本では古くから「喧嘩両成敗」とい言葉があります。本件は双方とも罪なり注意が行われてしかるべきです。(今後、違った進展になるかもしれませんが・・・)

アカデミー賞授賞式は近年、公平性の立場からアフリカ系や中東系、アジア系など様々な人種も評価の対象になっているようですが、もともとは白人至上の式でした。受賞者の人種だけの問題ではありません。司会も含めた運営側にクリーンなイメージが必要です。参加者含め当然、運営側も様々な注意を事前に払い「アカデミー賞」という最高栄誉式の名を汚さないでほしい。表面だけ変えても根本にある根強い差別意識を変える事ができない以上、こういった様々な問題が露呈してきて観客としては視聴離れにつながります。これはアカデミーに限らずアメリカに古くからある根本的かつ構造的な問題が露呈されたにすぎません。白人至上主義、アフリカ系住民への差別、黄色人種への差別、今起きてるアジア人への差別も現在進行形の深刻な問題です。

今後、アカデミーのイメージ低下になるのではれば、アカデミー賞授賞式などそもそもやらなければいいのです。別にアカデミー賞がなくても映画やドラマ見ている視聴者本人達が一番、作品の良さを理解しているのですから・・・

PS:今回の件で改めて自分に置き換えると「口は災いの元」である事を戒めとなりました。
口の悪い自分は、いつ批判しているロック氏側に立つ状況になるか分からないからです。なので改めて自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如・多動症(ADHD)では困難な発言前に「言われた相手の気持ちを想像する」事の重要性を学んだのです。

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